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家に帰ったら万事屋は酷いことになっていた。
「お帰り銀ちゃん、ご飯もらってきたアルか?」
「あ、銀さんお客様ですよ」
「おー、ただいまって、なにこの段ボールの山? つか、このメガネかけた黒いてるてる坊主はなんなんだ? うちのメガネか? 新八なのか?」
迎えに出てきた神楽に重箱を渡しながら、銀時はあたりを見回した。
あのー。台所も、居間も和室もダンボールでギッチギチで窓から光も入らなくて電気代がもったいないんですけど。
「誰がメガネだーっ!! いやメガネだけどもメガネが僕じゃないですから!」
銀時は己のアイデンティティと戦っている少年をさらりと無視して、ソファーに行儀よく座っている謎の人物を見た。
新八と似たような格好をしている。顔のあたりは絽のように透けていてそれでようやく誰だか分かった。快援隊の陸奥だ。
「えーと、こんなところで何してんの? 辰馬は? この段ボールの山、あんたの仕業? うちを倉庫代わりにするならそれなりにあれよ? 出すもん出してもらうよ?」
「むろん、ビジネスにきとるき」
陸奥は変わらず淡々とクールビューティだった。無表情で銀時の質問に答え始める。
「防菌スーツ一千着。おんしらに配ってほしい」
「これ着てると雪火に罹りにくくなるそうですよ」
だから新八までもが着ている訳だ。雪火は空気感染だからマスクだけでもそれなりの予防になる。こういう類いのスーツは今までもあったが、医療機関を優先に配布され、確か品薄になっていたはずだが。
「一千て…」
一千着もよくもかき集められたものだ。流石宇宙をまたにかける貿易会社というべきか。
「慈善事業じゃ。ただし全戸に配布できるほどの金銭的余裕はないき、どこに配るかはおんしらに任せるぜよ」
つまりタダか。銀時は陸奥の向かいに座って新八のくんだ水を飲む。煎茶までが流通不足で高騰している最中だからだ。
「お前らそんなんで儲かるの?」
「幕府と高杉両方から一万着の大口注文が入っちょる。それに評判は金では買えん」
今ここで名を挙げて持ち直した時に快援隊のさばく商品を買ってもらおうという算段か。ただ大江戸が持ち直すかどうかは何の保証もない。つまりこれはビジネスを視野に入れているとはいえ、純然たる救いの手なのだろう。
「なるほど。それで背中に快援隊の名前入りか。分かった。任せときな。報酬はこれもう一千で」
そういうと陸奥は一瞬目を見張ったが、ふうと息をついて頷いた。
「まあ、いいぜよ。それから坂本のことは…心配いらん。仲間を守って傷を負ったがの、全部自業自得じゃ」
「注文の品が揃ったき」
「なら届けてくるぜよ」
「おんしが? 高杉は来るなっちゅう話じゃったろう」
「だからこそ行くんじゃ。それに今度こそ見届けてやらにゃあいかんぜよ」
「ちゅうて、結局襲われたぜたよ。分かってて行ったんじゃ」
できるだけ問題のないように陸奥は説明したが、どうもそれだけではないようだった。だったら、辰馬が直接ここへこない訳がない。怪我くらいで身動きとれなくなる辰馬ではないだろう。
「それだけじゃねぇだろ?」
「挙げ句に雪火に罹かったぜよ」
銀時をはなをほじっていた手を止めた。
「襲撃者の中に雪火がおっての。返り血を浴びたっちゅう話じゃ。今頃大人しう寝ちょるはずじゃが。見守るどころか、とんだ笑いぐさぜよ」
いいながら陸奥のまなじりがきつくなる。この様子じゃ辰馬は陸奥に殺されるかもなと思いながら銀時は頷いた。
「そーか」
「わしはこれからあの馬鹿のとどめば刺しに行ってくるき、なんかあれば伝えるぜよ」
葬られる寸前までしばき倒されるであろう辰馬に別れの言葉を? それとも京にいるだろうヅラ? まさか高杉にかと銀時は一瞬思った。
言葉にならない。誰に何を伝えたいのか。
「…。ばーか」
言いたいことは沢山あった。しかし伝えてもらうようなことだったか。ただ会って、直接言わなければ自分の気はすまないだろう。そんな時間が残されていればの話だが。
「分かったぜよ」
他に何かないのか、などとも言わずに陸奥はあっさりと引き下がった。言葉にしても伝えきれない何かがあるのだろうと分かっていたようだった。
だから辰馬も自ら行ったのだろう。そして陸奥も利益にならないと分かっていても止めなかったのだ。たとえ社長に死の危険が迫ろうとも。
辰馬から購入したというスーツのおかげでようやく自由に出歩けるようになった桂は辰馬襲撃の報を聞いて長州から京にかけつけた。
いけません、今の総督は危険ですと武市に言われたがもちろん桂は気にも止めずどんどんと屋敷の奥深くへと進む。
「高杉、坂本が」
そういいかけた後、桂は言葉をのんだ。
なるほど、危険というのは確かだ。
高杉は京人と変わらぬほど色が白く、目元と桶を掴んだ指先がうっすらと赤みがかっていた。元から色気のある男だが、久しぶりに見た同門の幼なじみはどうしたことかますます艶がましている。
まあ、子供の頃から知っている桂には免疫があるから、この毒気はうつくしいなと目が覚めるような心地になる程度にしか効かないのだが。常人にはきついものがあるだろう。つまり危険。
それより。
「お前、どうした、熱でもあるのか? 大体この真冬に襦袢一枚でおる奴があるか! 綿入れはどうした? 足袋もはかずに」
「風呂上がりなんだよ、いきなり来たくせになんだ。お前は俺の母上か」
ああ、だから今の高杉は危険で、桶なんか持っていたのか。そしてほんのり潤んだような目をしていて、色っぽいのかと納得しながら桂は言った。
「お前の御母堂からはくれぐれもよろしくと。高杉お前、痩せたんじゃないのか」
「ほんと口うるせぇヅラだな。何しに来たんだ、うぜぇ」
高杉はぶつぶついいながら、椿の花の袷を着、帯を締める。そして片腕をぬいて懐手にした。そうすると、痩せたと思ったのは気のせいで、いつもの体の厚みに見える。桂はそれ以上体重について言及するのをやめて、名前を訂正する。
「ヅラではない桂だ! 坂本が襲撃されたと聞いてな」
「だからなんだ。知るか」
「お前が怒るのも最もだが誰がやったのか分かったのか」
「だから知るか。あんなもじゃげは陸奥に殺されればいい。もしくは雪火にな」
「うつったのか」
罹患すれば五割は死ぬ。桂の同志にも病死者が出ていたからそれは説明されなくとも分かっていた。
桂は舌打ちする。
防菌スーツなど納入しているくらいだ、自分こそそれで身を守っていなかったのか。しかし辰馬は前向きすぎてうかつなところがある。自分だけは罹らないと思い込んでいたのかもしれない。
「くくく、本物の馬鹿だろ。まあ十分役には立ったし、解放してやる。うまいところで手を引けたんじゃねぇか? あいつらしい悪運だ」
それで大魔王様の魔の手から逃れられても雪火で死んだら元も子もないだろうに。だが確かに、自分も高杉も辰馬が雪火などでは死なないだろうとどこかで思っている。うかつでばかなもじゃげだがゴキブリ並みにしぶどいイメージが植え付けられていた。脳裏に浮かぶのはあの気が抜けるような笑顔しかない。
どう思い返しても、叩いても斬ってもそして雪火でも死にそうになかった。
(だから悪運か)
「そうか。ところで高杉、お前本当に熱はないんだな?」
桂は頷きながら先ほど感じて不審に念を押す。
辰馬は雪火では死なないだろうが、しかしこの男はどうだろう。昔から病の類いを悉く拾って来た。流感しかり、肺炎しかり、インフルエンザしかり、気管支炎しかり。
もっとも高杉は十人のうちの一人だという話だ。だがだからといって熱をださないとはいえない。流感しでも、肺炎でも、インフルエンザでも、気管支炎でも熱は出るし、この時期はどれも命取りになる。
しかし確かめたくとも紙や書物が散乱していて高杉のそばまで近づくには、一度廊下へ出て上座の雪見障子から入り直さなくてはならない。桂が紙の結界を睨みながら迷っていると、当の高杉から睨まれてしまった。
「しつけぇ」
下がれと手を振る。これ以上やると本格的に怒らせてしまう。機嫌を取ってやる義理はないが、気が立つと触れさせもしなくなる。どちらにしろ熱は測れないだろう。桂はため息をつきながら踵を返した。
「あと、部屋はちゃんと片付けておけ」
全く。こんな散らかった部屋ではろくに話もできない。案内をさせずに直に居室へ来たのが悪いのだが、茶の一つも出してもらえなかったなと思いながら桂は廊下へ出る。こちらも慌てて出て来て手みやげの一つもなかったが。
「おい、武市ぃ、小姑がお帰りだ」
「小姑ではない、桂だ」
「はい、ただいま」
まあこのように側近が控えているのだ。高杉の体調管理も十全になされているだろう。確かに小姑のように桂がいつまでも気遣う必要もない。高杉ももう二十代も後半に突入している。子供ではなかった。
桂は辰馬の療養先を聞き出してから丁重に武市に見送られた。
近づかせてももらえぬまま、体よく追い出されたとも言うがその時には気づかなかった。
辰馬の気を取られていたせいもある。
その辰馬と言えば、笑った顔のまま昏睡して、無表情で逆上した陸奥に撲殺されそうになる寸前だった。
次は真撰組のターンです。なかなか日本の夜明けはこないなぁ。
「お帰り銀ちゃん、ご飯もらってきたアルか?」
「あ、銀さんお客様ですよ」
「おー、ただいまって、なにこの段ボールの山? つか、このメガネかけた黒いてるてる坊主はなんなんだ? うちのメガネか? 新八なのか?」
迎えに出てきた神楽に重箱を渡しながら、銀時はあたりを見回した。
あのー。台所も、居間も和室もダンボールでギッチギチで窓から光も入らなくて電気代がもったいないんですけど。
「誰がメガネだーっ!! いやメガネだけどもメガネが僕じゃないですから!」
銀時は己のアイデンティティと戦っている少年をさらりと無視して、ソファーに行儀よく座っている謎の人物を見た。
新八と似たような格好をしている。顔のあたりは絽のように透けていてそれでようやく誰だか分かった。快援隊の陸奥だ。
「えーと、こんなところで何してんの? 辰馬は? この段ボールの山、あんたの仕業? うちを倉庫代わりにするならそれなりにあれよ? 出すもん出してもらうよ?」
「むろん、ビジネスにきとるき」
陸奥は変わらず淡々とクールビューティだった。無表情で銀時の質問に答え始める。
「防菌スーツ一千着。おんしらに配ってほしい」
「これ着てると雪火に罹りにくくなるそうですよ」
だから新八までもが着ている訳だ。雪火は空気感染だからマスクだけでもそれなりの予防になる。こういう類いのスーツは今までもあったが、医療機関を優先に配布され、確か品薄になっていたはずだが。
「一千て…」
一千着もよくもかき集められたものだ。流石宇宙をまたにかける貿易会社というべきか。
「慈善事業じゃ。ただし全戸に配布できるほどの金銭的余裕はないき、どこに配るかはおんしらに任せるぜよ」
つまりタダか。銀時は陸奥の向かいに座って新八のくんだ水を飲む。煎茶までが流通不足で高騰している最中だからだ。
「お前らそんなんで儲かるの?」
「幕府と高杉両方から一万着の大口注文が入っちょる。それに評判は金では買えん」
今ここで名を挙げて持ち直した時に快援隊のさばく商品を買ってもらおうという算段か。ただ大江戸が持ち直すかどうかは何の保証もない。つまりこれはビジネスを視野に入れているとはいえ、純然たる救いの手なのだろう。
「なるほど。それで背中に快援隊の名前入りか。分かった。任せときな。報酬はこれもう一千で」
そういうと陸奥は一瞬目を見張ったが、ふうと息をついて頷いた。
「まあ、いいぜよ。それから坂本のことは…心配いらん。仲間を守って傷を負ったがの、全部自業自得じゃ」
「注文の品が揃ったき」
「なら届けてくるぜよ」
「おんしが? 高杉は来るなっちゅう話じゃったろう」
「だからこそ行くんじゃ。それに今度こそ見届けてやらにゃあいかんぜよ」
「ちゅうて、結局襲われたぜたよ。分かってて行ったんじゃ」
できるだけ問題のないように陸奥は説明したが、どうもそれだけではないようだった。だったら、辰馬が直接ここへこない訳がない。怪我くらいで身動きとれなくなる辰馬ではないだろう。
「それだけじゃねぇだろ?」
「挙げ句に雪火に罹かったぜよ」
銀時をはなをほじっていた手を止めた。
「襲撃者の中に雪火がおっての。返り血を浴びたっちゅう話じゃ。今頃大人しう寝ちょるはずじゃが。見守るどころか、とんだ笑いぐさぜよ」
いいながら陸奥のまなじりがきつくなる。この様子じゃ辰馬は陸奥に殺されるかもなと思いながら銀時は頷いた。
「そーか」
「わしはこれからあの馬鹿のとどめば刺しに行ってくるき、なんかあれば伝えるぜよ」
葬られる寸前までしばき倒されるであろう辰馬に別れの言葉を? それとも京にいるだろうヅラ? まさか高杉にかと銀時は一瞬思った。
言葉にならない。誰に何を伝えたいのか。
「…。ばーか」
言いたいことは沢山あった。しかし伝えてもらうようなことだったか。ただ会って、直接言わなければ自分の気はすまないだろう。そんな時間が残されていればの話だが。
「分かったぜよ」
他に何かないのか、などとも言わずに陸奥はあっさりと引き下がった。言葉にしても伝えきれない何かがあるのだろうと分かっていたようだった。
だから辰馬も自ら行ったのだろう。そして陸奥も利益にならないと分かっていても止めなかったのだ。たとえ社長に死の危険が迫ろうとも。
辰馬から購入したというスーツのおかげでようやく自由に出歩けるようになった桂は辰馬襲撃の報を聞いて長州から京にかけつけた。
いけません、今の総督は危険ですと武市に言われたがもちろん桂は気にも止めずどんどんと屋敷の奥深くへと進む。
「高杉、坂本が」
そういいかけた後、桂は言葉をのんだ。
なるほど、危険というのは確かだ。
高杉は京人と変わらぬほど色が白く、目元と桶を掴んだ指先がうっすらと赤みがかっていた。元から色気のある男だが、久しぶりに見た同門の幼なじみはどうしたことかますます艶がましている。
まあ、子供の頃から知っている桂には免疫があるから、この毒気はうつくしいなと目が覚めるような心地になる程度にしか効かないのだが。常人にはきついものがあるだろう。つまり危険。
それより。
「お前、どうした、熱でもあるのか? 大体この真冬に襦袢一枚でおる奴があるか! 綿入れはどうした? 足袋もはかずに」
「風呂上がりなんだよ、いきなり来たくせになんだ。お前は俺の母上か」
ああ、だから今の高杉は危険で、桶なんか持っていたのか。そしてほんのり潤んだような目をしていて、色っぽいのかと納得しながら桂は言った。
「お前の御母堂からはくれぐれもよろしくと。高杉お前、痩せたんじゃないのか」
「ほんと口うるせぇヅラだな。何しに来たんだ、うぜぇ」
高杉はぶつぶついいながら、椿の花の袷を着、帯を締める。そして片腕をぬいて懐手にした。そうすると、痩せたと思ったのは気のせいで、いつもの体の厚みに見える。桂はそれ以上体重について言及するのをやめて、名前を訂正する。
「ヅラではない桂だ! 坂本が襲撃されたと聞いてな」
「だからなんだ。知るか」
「お前が怒るのも最もだが誰がやったのか分かったのか」
「だから知るか。あんなもじゃげは陸奥に殺されればいい。もしくは雪火にな」
「うつったのか」
罹患すれば五割は死ぬ。桂の同志にも病死者が出ていたからそれは説明されなくとも分かっていた。
桂は舌打ちする。
防菌スーツなど納入しているくらいだ、自分こそそれで身を守っていなかったのか。しかし辰馬は前向きすぎてうかつなところがある。自分だけは罹らないと思い込んでいたのかもしれない。
「くくく、本物の馬鹿だろ。まあ十分役には立ったし、解放してやる。うまいところで手を引けたんじゃねぇか? あいつらしい悪運だ」
それで大魔王様の魔の手から逃れられても雪火で死んだら元も子もないだろうに。だが確かに、自分も高杉も辰馬が雪火などでは死なないだろうとどこかで思っている。うかつでばかなもじゃげだがゴキブリ並みにしぶどいイメージが植え付けられていた。脳裏に浮かぶのはあの気が抜けるような笑顔しかない。
どう思い返しても、叩いても斬ってもそして雪火でも死にそうになかった。
(だから悪運か)
「そうか。ところで高杉、お前本当に熱はないんだな?」
桂は頷きながら先ほど感じて不審に念を押す。
辰馬は雪火では死なないだろうが、しかしこの男はどうだろう。昔から病の類いを悉く拾って来た。流感しかり、肺炎しかり、インフルエンザしかり、気管支炎しかり。
もっとも高杉は十人のうちの一人だという話だ。だがだからといって熱をださないとはいえない。流感しでも、肺炎でも、インフルエンザでも、気管支炎でも熱は出るし、この時期はどれも命取りになる。
しかし確かめたくとも紙や書物が散乱していて高杉のそばまで近づくには、一度廊下へ出て上座の雪見障子から入り直さなくてはならない。桂が紙の結界を睨みながら迷っていると、当の高杉から睨まれてしまった。
「しつけぇ」
下がれと手を振る。これ以上やると本格的に怒らせてしまう。機嫌を取ってやる義理はないが、気が立つと触れさせもしなくなる。どちらにしろ熱は測れないだろう。桂はため息をつきながら踵を返した。
「あと、部屋はちゃんと片付けておけ」
全く。こんな散らかった部屋ではろくに話もできない。案内をさせずに直に居室へ来たのが悪いのだが、茶の一つも出してもらえなかったなと思いながら桂は廊下へ出る。こちらも慌てて出て来て手みやげの一つもなかったが。
「おい、武市ぃ、小姑がお帰りだ」
「小姑ではない、桂だ」
「はい、ただいま」
まあこのように側近が控えているのだ。高杉の体調管理も十全になされているだろう。確かに小姑のように桂がいつまでも気遣う必要もない。高杉ももう二十代も後半に突入している。子供ではなかった。
桂は辰馬の療養先を聞き出してから丁重に武市に見送られた。
近づかせてももらえぬまま、体よく追い出されたとも言うがその時には気づかなかった。
辰馬の気を取られていたせいもある。
その辰馬と言えば、笑った顔のまま昏睡して、無表情で逆上した陸奥に撲殺されそうになる寸前だった。
次は真撰組のターンです。なかなか日本の夜明けはこないなぁ。
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陸奥が帰った後、報酬が高すぎるんじゃないですかとお人好しの新八がさかんに心配している。帰った後にそんなこと言ったって後の祭りだろとは思うが、あいつらに損はさせねぇよと銀時は請け合うだけにして、重箱を開けた。
「あー、銀ちゃん手洗ってないアル。うがいもよ」
「はいはい。神楽、その間に食い尽くすなよ」
折角新八が防菌スーツを着ていても家主が家にウィルス持ち込んでたらいけねぇよなと割と素直にソファーを立った。
「それにしても都合二千着。さっさと配らないと銀さん寝る場所もないですねぇ」
箸の用意をしながら黒てるてるメガネの新八が指摘した。今現在、和室も居間もぎっちぎちなわけだから、ソファーの上で寝るしかないないわけだ。この真冬に。想像するだけでも寒い。
おいおい勘弁してくれよと思いながら銀時はせめて寝る前に布団を取り出すだけのスペースはつくらねぇとな、と居間の二人に聞こえるように声を張り上げた。
「誰がおれらだけでやるって言ったよ。こういう時の為に長谷川さんとかお妙とかキャサリンがいるんだろーが」
負けずに洗面所まで響く大きさで神楽の声がきこえた。
「銀ちゃん甘いあるよ。マダオが雪火に罹らないわけないアル」
「ああ」
神楽の言葉につい納得しながら戻って来た銀時はそろっていただきますをして重箱に箸をのばした。その時だった。
「どうして銀さんわたしを呼んでくれないのーっ」
上から人が落ちて来てそんなことを喚いた。猿飛あやめだった。
「あんた戦争行ってたんじゃないんですか!」
そして新八が全力で突っ込みを。
「そうそう。こんどは京で戦端がきられそうってんでお偉いさんに報告に戻って来たの。その前に銀さんを充電しようと思って♥ だからね銀さん、お仕事終わったらお手伝いするわ」
日輪が作った大根の麹漬け(甘い)をばりぼり食べながら銀時は即座に拒否した。
「あ、お前はいいから」
「どうしてぇぇ! あ、わかったわ。わたしだけ特別なのね。うれしい」
「うれしいじゃねぇよ。戦争なんかに関わりやがってどいつもこいつもとっとと消えろ」
「もっと罵って! 酷い言葉を投げつけて! 私をしかって!」
「うぜぇ! 飯くらい落ち着いて食わせろや」
などということがありつつも、いつまでも板の間で寝るのも勘弁と万事屋は早速防菌スーツの配布と注文取りを始めた。
「注文取りってどういうことですか、銀さん」
「まあまあお手本見せてやっから」
といいながら、銀時たちは雪火のせいですっかり客足の遠のいた大店、橋田屋ののれんをくぐった。
「おう、アポはねぇけどアポー持って来たぜ」
従業員まで少ない。微妙に寂れた感のある江戸で一二を争った橋田屋の受付で銀時はリンゴを取り出した。
「あら、銀さん」
受付嬢のいた場所に立っていたのはここんちの跡取り息子と駆け落ちした嫁だった。雪火のせいで従業員が減ったのか、嫁自ら働いているらしい。
だがちょうど良かった。大店らしくアポがないと主人に面会するのも大変な橋田屋だ。だがこの嫁は顔見知りだ。多少のことは融通してくれるだろう。
「おう、今日はちょっと頼みたいことがあってな。大旦那はいるか?」
「それがねぇ、雪火なの」
「そーか」
主までが雪火か。それでは微妙に寂れているのは客が来ないせいだけじゃない。主人を案じる空気が漂っているのだ
「うつすといけないって、あたしにも会ってくれないの。水臭いでしょ」
「大事な娘に倒れられたら困るからだろ。大丈夫、俺はうつらねぇ」
銀時が十人に一人だというと銀時そっくりな息子の話をはじめた。
「あら勘七郎といっしょね。テンパは雪火に罹らないのかしら? それとも銀髪だからかしらね」
「おいいい! それ関係なくね?」
「そうお? じゃあやっぱりあの人が守ってくれてるのかしら。勘七郎に抗体があったことお父さまもすごくすごーく喜んでくれて」
「そうだな。なあ、じゃあ起きてるとは限らないんだよな」
「かわりにあたしが聞きましょうか? 頼み事って?」
銀時はカクカクシカジカと語った。すると彼女は大旦那以上の男気を示した。
「分かりました。橋田屋は五千着」
「ゴ」
即断だった。驚く銀時に彼女は笑っていった。
「こういう時こそ、チャンスよ。旦那衆の集まりでもお話ししてもらいましょう。そうね、和泉屋さんや河内屋さんならきっと手伝ってくれるわ。ね、番頭さん」
「ええ、お願いしてみましょう」
「いいのか? 勝手に」
銀時は一応心配する。番頭までもがいいといっているんだから遠慮なんかしなくてもいいのだが、大旦那に嫁が叱られても困る。融通をつけてくれることを期待していたがそれ以上だ。折角孫を通して和解できた二人だし。だが想像以上に彼女は大旦那に信頼されているようだった。胸を張って言った。
「ねぇ銀さん。これでも天下に名の知れた橋田屋です。半端なことをしたらお父様に怒られるわ。それにこのご時世だもの。橋田屋だってどうなるか分からないわ。だからできるだけのことをしましょう。勘七郎だけ守られてるんじゃ、お天道様に申し訳ないわ。きっとお父様もいいと言ってくださいます」
「すまねぇ。ありがとう」
「そういうのを水臭いっていうのよ」
大江戸は粋と人情の町でしょ、と。
その通りだ。
だからこそ銀時はここを守りたいと思う。この町にいる人間たちを。
「良かったですね、銀さん」
「あたしたちも頑張って注文取るアル」
そうやって最初の一千着のほとんどが万事屋をとおして少しでも金のありそうな商人や地主の旦那衆に配られ、その日から倍々に追加注文が快援隊に殺到した。
もちろん、百万ともいえる江戸の人口全てをそれで守りきれる訳ではない。だがそれでも危険を冒さずに実働できる人間がこれで少しは増えた。
そうして町内で炊き出しをする有志たちに防菌スーツが行き渡った頃、真撰組が戻って来た。
京郊外にて行われた3度の負戦から。
そう。幕軍は手痛い敗北を喫した。その上、倒幕軍は朝廷工作に成功し錦の御旗を手に入れた。幕府は賊軍となったのだ。
目が覚めると必ず沖田は枕元のノートに時計の針がさす時間を書き付ける。起きていられる時間を記録するのだ。一日中寝ていた頃もあったが、今は日に4回、平均すると30〜40分くらいは起きていられるだろうか。それから厠へ行き、時が許せば入浴もする。そしてできるだけ、常人と変わらない食事をし、寝ている間に届いていた前線からの手紙を読む。
しかし今日は勝手が違った。
しんと静まり返っている屯所の中がざわついている。数人の手伝いが入れ替わりで様子を見に来るのとは訳が違った。
屯所を雪火の患者に開放するという話もあったから、そのためだろうか。
だが障子に映った影に沖田は目を見張った。
「近藤さん! お帰りなせぇ」
近藤は制服の上に黒いコートのようなものを着たまま、障子を開いた。
「おお、起きてたか。良かった。目の開いてる時間がずいぶん延びたって聞いたぞ。良かったなぁ」
しかしまだ一度に一時間以上は起きていられない。できるだけ通常の食事をとっていたが、やはり栄養が足りないのか体は萎えて、細くなる一方だ。
有志の給料で医者にかかれるし、点滴と輸血、高価な投薬で生きているけれども本当はいっそのこと死んだ方がいいのかもしれない。図太い沖田でさえもそう思う。他の雪火患者の絶望はいかばかりだろう。
けれども近藤の顔を見ているだけで、目を開けて良かった、生きていて良かったとも思う。
「近藤さん怪我は? 肩を撃たれたと聞きましたぜ」
案じていた近藤も無事だった。しかし右肩は重傷で、刀を握れないというようなことを沖田は手紙で知っていた。送られて来た手紙はほとんど近藤のものだったが、近藤自身はそれを伏せていたから驚いた気配がする。
「かなりいいぞ」
そういいながら近藤は左手で右肩を触った。
そうしている間に、ウィルスを遮断する幕をくぐってはいってきた看護士の手で、沖田の隣に布団が敷かれはじめた。
「ザキ…雪火ですかぃ」
土方に付き添われて担架で運ばれてきたのは山崎だった。
「ああ。気をつけてたんだが、怪我からウィルスが入ったみたいでな。怪我のほうも重症だ」
「生きてるだけましだ。山崎はまだ治る見込みがある。おめぇも養生しろよ」
土方の方に怪我はないようだった。しかし苦虫をすりつぶしたような顔をしている。大勢死んだな、と沖田は思った。この人たちはそのせいで疲弊している。どうして自分は一緒に行けなかったのだ。こういう時の為に自分はいるのではなかったか。
そんな真撰組に甲州出陣が言い渡された。
8
「あー、銀ちゃん手洗ってないアル。うがいもよ」
「はいはい。神楽、その間に食い尽くすなよ」
折角新八が防菌スーツを着ていても家主が家にウィルス持ち込んでたらいけねぇよなと割と素直にソファーを立った。
「それにしても都合二千着。さっさと配らないと銀さん寝る場所もないですねぇ」
箸の用意をしながら黒てるてるメガネの新八が指摘した。今現在、和室も居間もぎっちぎちなわけだから、ソファーの上で寝るしかないないわけだ。この真冬に。想像するだけでも寒い。
おいおい勘弁してくれよと思いながら銀時はせめて寝る前に布団を取り出すだけのスペースはつくらねぇとな、と居間の二人に聞こえるように声を張り上げた。
「誰がおれらだけでやるって言ったよ。こういう時の為に長谷川さんとかお妙とかキャサリンがいるんだろーが」
負けずに洗面所まで響く大きさで神楽の声がきこえた。
「銀ちゃん甘いあるよ。マダオが雪火に罹らないわけないアル」
「ああ」
神楽の言葉につい納得しながら戻って来た銀時はそろっていただきますをして重箱に箸をのばした。その時だった。
「どうして銀さんわたしを呼んでくれないのーっ」
上から人が落ちて来てそんなことを喚いた。猿飛あやめだった。
「あんた戦争行ってたんじゃないんですか!」
そして新八が全力で突っ込みを。
「そうそう。こんどは京で戦端がきられそうってんでお偉いさんに報告に戻って来たの。その前に銀さんを充電しようと思って♥ だからね銀さん、お仕事終わったらお手伝いするわ」
日輪が作った大根の麹漬け(甘い)をばりぼり食べながら銀時は即座に拒否した。
「あ、お前はいいから」
「どうしてぇぇ! あ、わかったわ。わたしだけ特別なのね。うれしい」
「うれしいじゃねぇよ。戦争なんかに関わりやがってどいつもこいつもとっとと消えろ」
「もっと罵って! 酷い言葉を投げつけて! 私をしかって!」
「うぜぇ! 飯くらい落ち着いて食わせろや」
などということがありつつも、いつまでも板の間で寝るのも勘弁と万事屋は早速防菌スーツの配布と注文取りを始めた。
「注文取りってどういうことですか、銀さん」
「まあまあお手本見せてやっから」
といいながら、銀時たちは雪火のせいですっかり客足の遠のいた大店、橋田屋ののれんをくぐった。
「おう、アポはねぇけどアポー持って来たぜ」
従業員まで少ない。微妙に寂れた感のある江戸で一二を争った橋田屋の受付で銀時はリンゴを取り出した。
「あら、銀さん」
受付嬢のいた場所に立っていたのはここんちの跡取り息子と駆け落ちした嫁だった。雪火のせいで従業員が減ったのか、嫁自ら働いているらしい。
だがちょうど良かった。大店らしくアポがないと主人に面会するのも大変な橋田屋だ。だがこの嫁は顔見知りだ。多少のことは融通してくれるだろう。
「おう、今日はちょっと頼みたいことがあってな。大旦那はいるか?」
「それがねぇ、雪火なの」
「そーか」
主までが雪火か。それでは微妙に寂れているのは客が来ないせいだけじゃない。主人を案じる空気が漂っているのだ
「うつすといけないって、あたしにも会ってくれないの。水臭いでしょ」
「大事な娘に倒れられたら困るからだろ。大丈夫、俺はうつらねぇ」
銀時が十人に一人だというと銀時そっくりな息子の話をはじめた。
「あら勘七郎といっしょね。テンパは雪火に罹らないのかしら? それとも銀髪だからかしらね」
「おいいい! それ関係なくね?」
「そうお? じゃあやっぱりあの人が守ってくれてるのかしら。勘七郎に抗体があったことお父さまもすごくすごーく喜んでくれて」
「そうだな。なあ、じゃあ起きてるとは限らないんだよな」
「かわりにあたしが聞きましょうか? 頼み事って?」
銀時はカクカクシカジカと語った。すると彼女は大旦那以上の男気を示した。
「分かりました。橋田屋は五千着」
「ゴ」
即断だった。驚く銀時に彼女は笑っていった。
「こういう時こそ、チャンスよ。旦那衆の集まりでもお話ししてもらいましょう。そうね、和泉屋さんや河内屋さんならきっと手伝ってくれるわ。ね、番頭さん」
「ええ、お願いしてみましょう」
「いいのか? 勝手に」
銀時は一応心配する。番頭までもがいいといっているんだから遠慮なんかしなくてもいいのだが、大旦那に嫁が叱られても困る。融通をつけてくれることを期待していたがそれ以上だ。折角孫を通して和解できた二人だし。だが想像以上に彼女は大旦那に信頼されているようだった。胸を張って言った。
「ねぇ銀さん。これでも天下に名の知れた橋田屋です。半端なことをしたらお父様に怒られるわ。それにこのご時世だもの。橋田屋だってどうなるか分からないわ。だからできるだけのことをしましょう。勘七郎だけ守られてるんじゃ、お天道様に申し訳ないわ。きっとお父様もいいと言ってくださいます」
「すまねぇ。ありがとう」
「そういうのを水臭いっていうのよ」
大江戸は粋と人情の町でしょ、と。
その通りだ。
だからこそ銀時はここを守りたいと思う。この町にいる人間たちを。
「良かったですね、銀さん」
「あたしたちも頑張って注文取るアル」
そうやって最初の一千着のほとんどが万事屋をとおして少しでも金のありそうな商人や地主の旦那衆に配られ、その日から倍々に追加注文が快援隊に殺到した。
もちろん、百万ともいえる江戸の人口全てをそれで守りきれる訳ではない。だがそれでも危険を冒さずに実働できる人間がこれで少しは増えた。
そうして町内で炊き出しをする有志たちに防菌スーツが行き渡った頃、真撰組が戻って来た。
京郊外にて行われた3度の負戦から。
そう。幕軍は手痛い敗北を喫した。その上、倒幕軍は朝廷工作に成功し錦の御旗を手に入れた。幕府は賊軍となったのだ。
目が覚めると必ず沖田は枕元のノートに時計の針がさす時間を書き付ける。起きていられる時間を記録するのだ。一日中寝ていた頃もあったが、今は日に4回、平均すると30〜40分くらいは起きていられるだろうか。それから厠へ行き、時が許せば入浴もする。そしてできるだけ、常人と変わらない食事をし、寝ている間に届いていた前線からの手紙を読む。
しかし今日は勝手が違った。
しんと静まり返っている屯所の中がざわついている。数人の手伝いが入れ替わりで様子を見に来るのとは訳が違った。
屯所を雪火の患者に開放するという話もあったから、そのためだろうか。
だが障子に映った影に沖田は目を見張った。
「近藤さん! お帰りなせぇ」
近藤は制服の上に黒いコートのようなものを着たまま、障子を開いた。
「おお、起きてたか。良かった。目の開いてる時間がずいぶん延びたって聞いたぞ。良かったなぁ」
しかしまだ一度に一時間以上は起きていられない。できるだけ通常の食事をとっていたが、やはり栄養が足りないのか体は萎えて、細くなる一方だ。
有志の給料で医者にかかれるし、点滴と輸血、高価な投薬で生きているけれども本当はいっそのこと死んだ方がいいのかもしれない。図太い沖田でさえもそう思う。他の雪火患者の絶望はいかばかりだろう。
けれども近藤の顔を見ているだけで、目を開けて良かった、生きていて良かったとも思う。
「近藤さん怪我は? 肩を撃たれたと聞きましたぜ」
案じていた近藤も無事だった。しかし右肩は重傷で、刀を握れないというようなことを沖田は手紙で知っていた。送られて来た手紙はほとんど近藤のものだったが、近藤自身はそれを伏せていたから驚いた気配がする。
「かなりいいぞ」
そういいながら近藤は左手で右肩を触った。
そうしている間に、ウィルスを遮断する幕をくぐってはいってきた看護士の手で、沖田の隣に布団が敷かれはじめた。
「ザキ…雪火ですかぃ」
土方に付き添われて担架で運ばれてきたのは山崎だった。
「ああ。気をつけてたんだが、怪我からウィルスが入ったみたいでな。怪我のほうも重症だ」
「生きてるだけましだ。山崎はまだ治る見込みがある。おめぇも養生しろよ」
土方の方に怪我はないようだった。しかし苦虫をすりつぶしたような顔をしている。大勢死んだな、と沖田は思った。この人たちはそのせいで疲弊している。どうして自分は一緒に行けなかったのだ。こういう時の為に自分はいるのではなかったか。
そんな真撰組に甲州出陣が言い渡された。
8
沖田は寝間着から隊服に着替えると、床の間に飾りっぱなしだった刀を腰に佩き、財布の中身を確認した。駕篭タクを呼んで列車に乗るまでに一時間もかからない。列車に乗れば寝てても甲州までいける。
最後に人にうつさないようちょろまかしておいた支給品の防菌スーツを着れば終わりだ。そのまま沖田はそっと部屋から出ようとした。
「ちょっと、何処行くんですか、沖田さん」
沖田は舌打ちする。最前まで寝ていた山崎に上着を掴まれていた。
「厠」
だが相手は半病半重傷患者だ。簡単に振り切れる。そう判断して沖田は空とぼけた返事を返した。
「嘘付くんじゃないよおおおおお! 刀なんか差してあいだだだだだだ! ちょっとこっちは雪火の上、怪我してんですから無茶させないでください!」
激したせいで、傷が痛んだのか絶叫して文句を垂れながらも山崎は手を離さなかった。あ〜。厄介なのに見つかった。こいつジミーだけど意外にやるんだ。根性あんだ。すぐに逃げたがるけどと思いながら沖田は振り返って山崎の手を掴んだ。
「あ〜、俺ってSだからそんな声だされたら興奮しちまうだろぃ」
しかし病人生活が長かったのか、山崎の根性がえらいのか全然外れなくって、沖田は終いには爪を立ててぐりぐりした。
だが山崎は必死に沖田から手を離さないようにしながら、何処から出したのか片手で携帯を操作しはじめた。
「全部の意味で駄目ですって、あもしもし万事屋さん? 仕事です、旦那寄越してください。どSの星の王子様が脱走です。エマージェンシーエマージェンシー」
もしもの時の為に短縮番号が登録されていた。今がもしもじゃなかったらいつがもしもですかもしもしみたいな。
「ザキてめぇ、何してんだ?」
ひいいいい。目が赤く光ってるよおおお、でもあんたがしそうなことなんて先刻副長はお見通しだったんですよ、その際の対処法はしっかりと伝授されてましたーっと思いながら山崎は説得というか脅迫と言おうかそんなようなことを続けた。
「駄目ったら駄目です。次は近藤さんに電話しますよ。大体あんたあっちに合流したって何ができるって言うんです」
あの鬼の副長、万事屋の旦那と超同族嫌悪っぽい意地の張り合いをしている土方さんがプライドを曲げてまで頼んで行ったことを無駄にさせるわけにはいかない。それだけじゃない。この人を行かせたら本当に死んでしまう。
やっと一時間。そのぎりぎりの枠に入ろうという時に無茶をして、死ぬ側の五割に入ったら近藤さんも泣く。絶対泣く。俺も泣く。鬼の目にも涙だ。
それにそんなに短い覚醒期でほんとに何をする気なのだ。敵軍に単身特攻か。本気でやりそうで山崎は怖かった。
「近藤さんはまだ刀も持てねぇんだ。俺が寝てなんかいられねぇ。何の為に常日頃昼寝に勤しんでたと思うんでぃ。こういう時のためだろぃ。こんな俺だって盾にくらいなれらぁ」
言い争いながらもみ合っているうちに携帯は畳の向こうに転がってしまった。だがここで逃すわけにはいかない。山崎は今度は両手で沖田を押さえにかかりながら、あらん限りの力で怒鳴った。
「一番隊隊長が盾になんかならなくたって、他の隊士がなります! 俺たちを見くびるな!」
逆切れと言ってもいい。なんとか万事屋の旦那が来るまでは行かせるわけにはいかない。
「だったらなんのために俺がいるんでぃ」
置き去りにされた子供みたいな顔で、親に見捨てられた子供みたいな顔で、そんな悲しいことを言うな! 誰一人としてあんたにそんなことをさせるために一緒にいるんじゃない。そう叱ってやりたかった。ああ、どうしてここに土方さんはいないのだろう。
「それに高杉や桂の野郎どもは俺たちを恨んでるだろぃ」
山崎は閉じそうになる目を必死で開きながら言葉を紡ぐ。
「桂は新政府の参与で京を動けない。高杉派は…高杉は何もしなくても遠からず死にます!」
「何言ってやがんでぇ?」
何を根拠にそんな自信満々に言っているのだ。これはあれだな。完全に時間稼ぎだ。そう沖田は思って本格的に暴れようとした。山崎は腹を斬られてるから、みぞおちは狙えない。あと狙うとしたら延髄か、と思いながら。
防長二州だけで幕府に反逆するのは心もとない。そう、諸隊の総督たちが考えていることを早くから高杉は察していた。それに鬼兵隊はともかくにわか仕立ての諸隊には武器弾薬が不足していた。
ちょうどそんなとき武市を通じて辰馬から薩州同盟を打診された。正直そんなものに余力を裂くつもりはなかった。諸公の軍など当てにはならない。形勢不利と見るや、ひらひらと翻る。そんなものを締結している間に時は過ぎさってしまう。
巡って来た時機が。
だが防州長州だけでは後背を突かれる。全隊で出帥して軍資金を供出する藩庁を空にする訳にはいかない。京を押さえ、江戸まで攻め上るにはどうしてもそのための対策を講じる必要があった。
江戸での桂の立場が悪くなっていると聞いて、そういうわけで文を書いた。こういう面倒ごとは奴に押し付けるに限る。利用するのはお互い様だ。少数派となってしまった桂が巻き返すにはこちらにくるほかないし、奴は郷里が戦火に焼かれるのを嫌がるだろう。
(焼かれたからといってどうというほどのこともない)
そう考える高杉とは違って。
同盟してからも薩州側の兵が整うまではかなりの時間がかかり、案の定高杉は非常に苛々する日々を送った。
だが幕府に歯向かうと藩論を統一してからの薩州の動きは苛烈だった。江戸の要所で焼き討ちさせて幕府を挑発し、朝廷での将軍を辞した内大臣を追い落とすための工作も、率先してやっていると聞いた。
見事な変節だった。会州とは先頃まで同盟関係にあり、その攻撃の矛先が高杉たちだったことを鑑みれば容易く信用することはできない。しかし薩摩隼人というだけあって奴らは強い。恐らく会州を除けば日本最強だろう。
高杉はほの暗い笑みを浮かべた。
(一握りに滅び尽くしてやるさ)
会州も薩州も利用して利用して利用し尽くして、劫火で焼き滅ぼし、灰燼に帰してやるよと腹の中でどす黒く獣が吠える。
(間に合えば、の話だがな)
自嘲する高杉に抗議するように獣は体の中で暴れ狂った。高杉は強くなる目眩とこみ上げてくる不快さ、そして息苦しさに踞り、桶を掴む間もなく、梅花の散る袖を赤く染めた。
ああ、折角白石が呉れた気に入りの品だったのにとかすかにそれを惜しんだ。近頃は一度袖を通すと二度と着れなくなることが多い。いっそのこと襦袢で過ごそうかと思ったがそうもいかない。桂が上京して来て、いちいち口うるさかった。
だがそれももう終わりだ。
薩州の挑発に乗った幕府がとうとう遣り合う気になったらしい。口火を切ればあとは。
あとは?
(俺は、お前は、間に合うのか…? 銀時…)
分からない。
「総督? 大丈夫ですか」
苦しむ気配を察した武市が雪見障子を開けて、廊下の外から声をかけて来た。
高杉のいる上座には静電気を利用した不可視の幕がある。近づき過ぎればなんとはなしに分かるものだが、大概部屋に入ってくるものは散らかった書き付けに気を取られる。市販されている紗のように透ける幕よりもまだ高価なものだが、軍内で高杉の不調については伏せられているので必要な装置だった。
だが武市は知っている。それに武市は坂本に届けさせた対雪火の羽織を鴉のように纏っていた。知らずにうつすことはないだろう。
「ああ」
高杉は吐血した着物を隠す必要もなく、ただ口元を拭ってから振り向いた。
「皆さんお揃いになりました」
武市はそばに置くには都合の良い人間だった。冷静沈着で慎重すぎるきらいはあるが暴走しがちの人間の多い鬼兵隊のいいブレーキになった。無表情を通り越した鯉のような目は、例え動揺していても内心が透けて見えない。そう思いながら高杉は頷く。
「分かった」
高杉は武市を廊下に控えさせたまま戦装束に改めた。といっても、細袴に、袖無し一枚。陣羽織は着けていない。簡単なものだ。
見た目が寒いのは分かっていたが改める気が高杉にはない。平素も袷一枚で過ごしている。冷えを感じなくなってどれほど経つだろう。雪が燃えるほど、と言われる雪火が長らく高杉の身のうちを焦がしていた。
発症前の感染初期に投薬すれば五割の確率で生存できただろうが、日頃からよく発熱する高杉が気がついた時には初期の段階はとうに過ぎていた。それでも、薬を飲めば致死率100%、という数字よりは生き延びる可能性はあっただろう。だが高杉は頑として薬を飲むことを拒んだ。
死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらば、いつでも生きるべし
そう松陽が言った通りに、高杉は生きてきた。仲間が斃れても斃れても、彼らによって命を繋がれて生きたのはこの遺訓に従ったためだった。
そして同じ理由で、服薬しないことを選んだ。副作用などで昏睡してなどいられない。
兵を挙げる最後の機会だった。この好機を逃せば次はない。果たして高杉の目論見はあたり、盤石に見えた幕府の支配は根底から揺らぎ始めている。夢物語でしかなかった倒幕は実際にできないことはない、そう、認められつつある。
その徳川の世の終焉を見ることができるかどうか。それは重要ではない。
見れればいいと思ってはいたが、適わずともそれはそれで良かった。ただこの一戦は是が非でも勝たなくてはならない。まだ兵数で言えば幕軍の方が上だ。艦隊の数も。
始めたことを軌道に乗せれば、後に続くものに任せてもいい。高杉は世界をぶっ壊す心算だったが、途中力つきたならそれが天命だ。仕方がない。
そう思ってなければ桂など呼ばなかっただろう。
破壊できなかった汚れた世界を、醜い人間をできるだけ道連れにするだけだ。死んだ後、銀時が守った人間がどれほど生き残り、桂が新しく何を打ち立てようが知ったことではない。
せいぜい俺たちの流した血の海の上に、手垢にまみれた人の歴史を続けていけばいい。
(どうせ、碌なもんじゃねぇだろうがな)
お前の好きな梅だって、人の手が入ってキレーに咲くんじゃねぇか、人を邪魔にすんなとは銀時が言ったのだったか。でも別にきれいに剪定された枝にちらほらと咲くから梅が好きだと言う訳じゃない。
「直に本物の梅が咲く」
支度を整え長廊下を出ると、庭先に梅が見えた。蕾は日に日に膨らんで、陽気のいい日が数日続けば咲き始めるだろう。この庭の梅は、紅か白か。まだ見た目には分からない。咲きこぼれるのを楽しみにしていた高杉は後に続く武市にそう言った。
「江戸で梅見と洒落込みてぇところだがな」
椿は冬の花だが、梅は違う。春の先駆け。巡りくる春を一番に告げる花。だから高杉はいつも、ことさらに梅を好んだ。今年の梅はさらに格別だろうと思う。
「難しいでしょう。しかしこの春には」
「そうだな。もう春だ」
松陽は人生を四季に準えた。ならばこの春が高杉に巡る最後の春になる。梅の花を追うように高杉は東へ行き、長い長い春を楽しむだろう。
天人を殺していた攘夷戦争と違って、この戦いは人間同士の殺しあいだ。抜刀して浴びる血も赤かった。けれども粛正にあってからこれまで、高杉の敵はずっと同じ人間だった。
頭から返り血を浴びても、何の痛痒も感じない。
それに既に雪火に罹っている高杉は誰の血を浴びようが、これ以上悪くなどならない。だから高杉は諸隊の総指揮ははじめから大村や山田に任せ、最前線にいる。
高杉はいつ病に倒れるか分からない。そうなる前に戦場で死にたいとは思うが、どちらにしろ戦線から離脱しなければならない最悪の事態を慮れば、それが最前だった。
大村も山田も高杉と同じ、自軍がどうすれば勝てるのか十分に分かっている。会州兵は白兵戦に強く、長州兵は弱い。まともにあたれば蹴散らされて終わりだということも十分に。
攻撃の要は射撃と砲撃だ。彼らは自軍に敵部隊を近づけることなく撃って撃って撃ちまくる。そう指示している。
薩州もまた豊富な火器で応戦していた。銃。大砲による殺戮だ。幸い先陣は槍部隊。いい的だ。
高杉を含む鬼兵隊はそれには参加していない。
「晋助!」
背後から掛けられた万斉の声に振り返らぬまま、高杉は手を挙げた。
目当ては会州もしくは真選組の突撃部隊だった。それに白兵戦で挑む。
諸隊の総督や総官たちは松陽門下の生き残りであったり、同僚であったり旧知の仲で、当初高杉の無茶を嗜めようという動きもあった。あったが、まあ結局、止めきることができないのはいつものことだった。
万斉が警告した通り、砲撃の合間を縫って真選組がやってくる。流石に密集形態を取らずにばらばらに単独突撃か。
近藤を暗殺されかけて相当気が立っている。平素から追いかけっこをしていた相手でもある。刀を抜いて待ち受ける高杉を見て、目の色を変えた。
高杉は笑みながら敵の攻撃を誘い、戦場の狂気に身を浸した。
恨みは骨髄まで染み渡り、復讐の血を獣は存分に啜った。
「高杉晋助ならすぐに死にます。雪火です」
「なんだって」
「血反吐吐きながら戦ってました…もう末期なんです」
沖田は息を飲んだ。
「マジでか」
あの高杉晋助が死ぬ。人を、命を、笑いながら火にくべるような、誰も彼もを魅了して狂気に酔わせて唆し、道を外させては破滅させて来たあの鬼の頭目が、雪火で。いや、血反吐を吐きながらも尚戦場にあるということはそこで死ぬ気か。
「多分俺はそれでうつりました」
だがそれが本当なら、それを知りつつ共に戦い、率いられている敵軍は死に物狂いで攻め上ってくる。そもそもが高杉に呼応してきた兵の集まり。大なり小なり彼に心酔しているとみていい。それほど高杉晋助のカリスマは厄介なものなのだ。高杉がそこまでの覚悟で臨んでくるなら尚更。
「それなら尚のこと、近藤さんが危ぇ」
「…沖田さん」
取りすがる山崎を沖田は振り払った。布団に倒れ込んだ山崎はそれ以上沖田を止めることはできなかた。傷の痛みで身動きが取れなかったのと、覚醒期が終わったのだ。彼はまだ沖田と違って数分しか目覚めていられない。
「悪ぃな、ザキ。俺は行くよ」
今までにおわしていただけでしたが梅花凋落ってタイトルがもう十分ネタバレで台無し、と思いました。あと真選組の人たちの関係性とか性格はビスコさんに洗脳されてたそのまんま…。ごめんね! 9
最後に人にうつさないようちょろまかしておいた支給品の防菌スーツを着れば終わりだ。そのまま沖田はそっと部屋から出ようとした。
「ちょっと、何処行くんですか、沖田さん」
沖田は舌打ちする。最前まで寝ていた山崎に上着を掴まれていた。
「厠」
だが相手は半病半重傷患者だ。簡単に振り切れる。そう判断して沖田は空とぼけた返事を返した。
「嘘付くんじゃないよおおおおお! 刀なんか差してあいだだだだだだ! ちょっとこっちは雪火の上、怪我してんですから無茶させないでください!」
激したせいで、傷が痛んだのか絶叫して文句を垂れながらも山崎は手を離さなかった。あ〜。厄介なのに見つかった。こいつジミーだけど意外にやるんだ。根性あんだ。すぐに逃げたがるけどと思いながら沖田は振り返って山崎の手を掴んだ。
「あ〜、俺ってSだからそんな声だされたら興奮しちまうだろぃ」
しかし病人生活が長かったのか、山崎の根性がえらいのか全然外れなくって、沖田は終いには爪を立ててぐりぐりした。
だが山崎は必死に沖田から手を離さないようにしながら、何処から出したのか片手で携帯を操作しはじめた。
「全部の意味で駄目ですって、あもしもし万事屋さん? 仕事です、旦那寄越してください。どSの星の王子様が脱走です。エマージェンシーエマージェンシー」
もしもの時の為に短縮番号が登録されていた。今がもしもじゃなかったらいつがもしもですかもしもしみたいな。
「ザキてめぇ、何してんだ?」
ひいいいい。目が赤く光ってるよおおお、でもあんたがしそうなことなんて先刻副長はお見通しだったんですよ、その際の対処法はしっかりと伝授されてましたーっと思いながら山崎は説得というか脅迫と言おうかそんなようなことを続けた。
「駄目ったら駄目です。次は近藤さんに電話しますよ。大体あんたあっちに合流したって何ができるって言うんです」
あの鬼の副長、万事屋の旦那と超同族嫌悪っぽい意地の張り合いをしている土方さんがプライドを曲げてまで頼んで行ったことを無駄にさせるわけにはいかない。それだけじゃない。この人を行かせたら本当に死んでしまう。
やっと一時間。そのぎりぎりの枠に入ろうという時に無茶をして、死ぬ側の五割に入ったら近藤さんも泣く。絶対泣く。俺も泣く。鬼の目にも涙だ。
それにそんなに短い覚醒期でほんとに何をする気なのだ。敵軍に単身特攻か。本気でやりそうで山崎は怖かった。
「近藤さんはまだ刀も持てねぇんだ。俺が寝てなんかいられねぇ。何の為に常日頃昼寝に勤しんでたと思うんでぃ。こういう時のためだろぃ。こんな俺だって盾にくらいなれらぁ」
言い争いながらもみ合っているうちに携帯は畳の向こうに転がってしまった。だがここで逃すわけにはいかない。山崎は今度は両手で沖田を押さえにかかりながら、あらん限りの力で怒鳴った。
「一番隊隊長が盾になんかならなくたって、他の隊士がなります! 俺たちを見くびるな!」
逆切れと言ってもいい。なんとか万事屋の旦那が来るまでは行かせるわけにはいかない。
「だったらなんのために俺がいるんでぃ」
置き去りにされた子供みたいな顔で、親に見捨てられた子供みたいな顔で、そんな悲しいことを言うな! 誰一人としてあんたにそんなことをさせるために一緒にいるんじゃない。そう叱ってやりたかった。ああ、どうしてここに土方さんはいないのだろう。
「それに高杉や桂の野郎どもは俺たちを恨んでるだろぃ」
山崎は閉じそうになる目を必死で開きながら言葉を紡ぐ。
「桂は新政府の参与で京を動けない。高杉派は…高杉は何もしなくても遠からず死にます!」
「何言ってやがんでぇ?」
何を根拠にそんな自信満々に言っているのだ。これはあれだな。完全に時間稼ぎだ。そう沖田は思って本格的に暴れようとした。山崎は腹を斬られてるから、みぞおちは狙えない。あと狙うとしたら延髄か、と思いながら。
防長二州だけで幕府に反逆するのは心もとない。そう、諸隊の総督たちが考えていることを早くから高杉は察していた。それに鬼兵隊はともかくにわか仕立ての諸隊には武器弾薬が不足していた。
ちょうどそんなとき武市を通じて辰馬から薩州同盟を打診された。正直そんなものに余力を裂くつもりはなかった。諸公の軍など当てにはならない。形勢不利と見るや、ひらひらと翻る。そんなものを締結している間に時は過ぎさってしまう。
巡って来た時機が。
だが防州長州だけでは後背を突かれる。全隊で出帥して軍資金を供出する藩庁を空にする訳にはいかない。京を押さえ、江戸まで攻め上るにはどうしてもそのための対策を講じる必要があった。
江戸での桂の立場が悪くなっていると聞いて、そういうわけで文を書いた。こういう面倒ごとは奴に押し付けるに限る。利用するのはお互い様だ。少数派となってしまった桂が巻き返すにはこちらにくるほかないし、奴は郷里が戦火に焼かれるのを嫌がるだろう。
(焼かれたからといってどうというほどのこともない)
そう考える高杉とは違って。
同盟してからも薩州側の兵が整うまではかなりの時間がかかり、案の定高杉は非常に苛々する日々を送った。
だが幕府に歯向かうと藩論を統一してからの薩州の動きは苛烈だった。江戸の要所で焼き討ちさせて幕府を挑発し、朝廷での将軍を辞した内大臣を追い落とすための工作も、率先してやっていると聞いた。
見事な変節だった。会州とは先頃まで同盟関係にあり、その攻撃の矛先が高杉たちだったことを鑑みれば容易く信用することはできない。しかし薩摩隼人というだけあって奴らは強い。恐らく会州を除けば日本最強だろう。
高杉はほの暗い笑みを浮かべた。
(一握りに滅び尽くしてやるさ)
会州も薩州も利用して利用して利用し尽くして、劫火で焼き滅ぼし、灰燼に帰してやるよと腹の中でどす黒く獣が吠える。
(間に合えば、の話だがな)
自嘲する高杉に抗議するように獣は体の中で暴れ狂った。高杉は強くなる目眩とこみ上げてくる不快さ、そして息苦しさに踞り、桶を掴む間もなく、梅花の散る袖を赤く染めた。
ああ、折角白石が呉れた気に入りの品だったのにとかすかにそれを惜しんだ。近頃は一度袖を通すと二度と着れなくなることが多い。いっそのこと襦袢で過ごそうかと思ったがそうもいかない。桂が上京して来て、いちいち口うるさかった。
だがそれももう終わりだ。
薩州の挑発に乗った幕府がとうとう遣り合う気になったらしい。口火を切ればあとは。
あとは?
(俺は、お前は、間に合うのか…? 銀時…)
分からない。
「総督? 大丈夫ですか」
苦しむ気配を察した武市が雪見障子を開けて、廊下の外から声をかけて来た。
高杉のいる上座には静電気を利用した不可視の幕がある。近づき過ぎればなんとはなしに分かるものだが、大概部屋に入ってくるものは散らかった書き付けに気を取られる。市販されている紗のように透ける幕よりもまだ高価なものだが、軍内で高杉の不調については伏せられているので必要な装置だった。
だが武市は知っている。それに武市は坂本に届けさせた対雪火の羽織を鴉のように纏っていた。知らずにうつすことはないだろう。
「ああ」
高杉は吐血した着物を隠す必要もなく、ただ口元を拭ってから振り向いた。
「皆さんお揃いになりました」
武市はそばに置くには都合の良い人間だった。冷静沈着で慎重すぎるきらいはあるが暴走しがちの人間の多い鬼兵隊のいいブレーキになった。無表情を通り越した鯉のような目は、例え動揺していても内心が透けて見えない。そう思いながら高杉は頷く。
「分かった」
高杉は武市を廊下に控えさせたまま戦装束に改めた。といっても、細袴に、袖無し一枚。陣羽織は着けていない。簡単なものだ。
見た目が寒いのは分かっていたが改める気が高杉にはない。平素も袷一枚で過ごしている。冷えを感じなくなってどれほど経つだろう。雪が燃えるほど、と言われる雪火が長らく高杉の身のうちを焦がしていた。
発症前の感染初期に投薬すれば五割の確率で生存できただろうが、日頃からよく発熱する高杉が気がついた時には初期の段階はとうに過ぎていた。それでも、薬を飲めば致死率100%、という数字よりは生き延びる可能性はあっただろう。だが高杉は頑として薬を飲むことを拒んだ。
死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらば、いつでも生きるべし
そう松陽が言った通りに、高杉は生きてきた。仲間が斃れても斃れても、彼らによって命を繋がれて生きたのはこの遺訓に従ったためだった。
そして同じ理由で、服薬しないことを選んだ。副作用などで昏睡してなどいられない。
兵を挙げる最後の機会だった。この好機を逃せば次はない。果たして高杉の目論見はあたり、盤石に見えた幕府の支配は根底から揺らぎ始めている。夢物語でしかなかった倒幕は実際にできないことはない、そう、認められつつある。
その徳川の世の終焉を見ることができるかどうか。それは重要ではない。
見れればいいと思ってはいたが、適わずともそれはそれで良かった。ただこの一戦は是が非でも勝たなくてはならない。まだ兵数で言えば幕軍の方が上だ。艦隊の数も。
始めたことを軌道に乗せれば、後に続くものに任せてもいい。高杉は世界をぶっ壊す心算だったが、途中力つきたならそれが天命だ。仕方がない。
そう思ってなければ桂など呼ばなかっただろう。
破壊できなかった汚れた世界を、醜い人間をできるだけ道連れにするだけだ。死んだ後、銀時が守った人間がどれほど生き残り、桂が新しく何を打ち立てようが知ったことではない。
せいぜい俺たちの流した血の海の上に、手垢にまみれた人の歴史を続けていけばいい。
(どうせ、碌なもんじゃねぇだろうがな)
お前の好きな梅だって、人の手が入ってキレーに咲くんじゃねぇか、人を邪魔にすんなとは銀時が言ったのだったか。でも別にきれいに剪定された枝にちらほらと咲くから梅が好きだと言う訳じゃない。
「直に本物の梅が咲く」
支度を整え長廊下を出ると、庭先に梅が見えた。蕾は日に日に膨らんで、陽気のいい日が数日続けば咲き始めるだろう。この庭の梅は、紅か白か。まだ見た目には分からない。咲きこぼれるのを楽しみにしていた高杉は後に続く武市にそう言った。
「江戸で梅見と洒落込みてぇところだがな」
椿は冬の花だが、梅は違う。春の先駆け。巡りくる春を一番に告げる花。だから高杉はいつも、ことさらに梅を好んだ。今年の梅はさらに格別だろうと思う。
「難しいでしょう。しかしこの春には」
「そうだな。もう春だ」
松陽は人生を四季に準えた。ならばこの春が高杉に巡る最後の春になる。梅の花を追うように高杉は東へ行き、長い長い春を楽しむだろう。
天人を殺していた攘夷戦争と違って、この戦いは人間同士の殺しあいだ。抜刀して浴びる血も赤かった。けれども粛正にあってからこれまで、高杉の敵はずっと同じ人間だった。
頭から返り血を浴びても、何の痛痒も感じない。
それに既に雪火に罹っている高杉は誰の血を浴びようが、これ以上悪くなどならない。だから高杉は諸隊の総指揮ははじめから大村や山田に任せ、最前線にいる。
高杉はいつ病に倒れるか分からない。そうなる前に戦場で死にたいとは思うが、どちらにしろ戦線から離脱しなければならない最悪の事態を慮れば、それが最前だった。
大村も山田も高杉と同じ、自軍がどうすれば勝てるのか十分に分かっている。会州兵は白兵戦に強く、長州兵は弱い。まともにあたれば蹴散らされて終わりだということも十分に。
攻撃の要は射撃と砲撃だ。彼らは自軍に敵部隊を近づけることなく撃って撃って撃ちまくる。そう指示している。
薩州もまた豊富な火器で応戦していた。銃。大砲による殺戮だ。幸い先陣は槍部隊。いい的だ。
高杉を含む鬼兵隊はそれには参加していない。
「晋助!」
背後から掛けられた万斉の声に振り返らぬまま、高杉は手を挙げた。
目当ては会州もしくは真選組の突撃部隊だった。それに白兵戦で挑む。
諸隊の総督や総官たちは松陽門下の生き残りであったり、同僚であったり旧知の仲で、当初高杉の無茶を嗜めようという動きもあった。あったが、まあ結局、止めきることができないのはいつものことだった。
万斉が警告した通り、砲撃の合間を縫って真選組がやってくる。流石に密集形態を取らずにばらばらに単独突撃か。
近藤を暗殺されかけて相当気が立っている。平素から追いかけっこをしていた相手でもある。刀を抜いて待ち受ける高杉を見て、目の色を変えた。
高杉は笑みながら敵の攻撃を誘い、戦場の狂気に身を浸した。
恨みは骨髄まで染み渡り、復讐の血を獣は存分に啜った。
「高杉晋助ならすぐに死にます。雪火です」
「なんだって」
「血反吐吐きながら戦ってました…もう末期なんです」
沖田は息を飲んだ。
「マジでか」
あの高杉晋助が死ぬ。人を、命を、笑いながら火にくべるような、誰も彼もを魅了して狂気に酔わせて唆し、道を外させては破滅させて来たあの鬼の頭目が、雪火で。いや、血反吐を吐きながらも尚戦場にあるということはそこで死ぬ気か。
「多分俺はそれでうつりました」
だがそれが本当なら、それを知りつつ共に戦い、率いられている敵軍は死に物狂いで攻め上ってくる。そもそもが高杉に呼応してきた兵の集まり。大なり小なり彼に心酔しているとみていい。それほど高杉晋助のカリスマは厄介なものなのだ。高杉がそこまでの覚悟で臨んでくるなら尚更。
「それなら尚のこと、近藤さんが危ぇ」
「…沖田さん」
取りすがる山崎を沖田は振り払った。布団に倒れ込んだ山崎はそれ以上沖田を止めることはできなかた。傷の痛みで身動きが取れなかったのと、覚醒期が終わったのだ。彼はまだ沖田と違って数分しか目覚めていられない。
「悪ぃな、ザキ。俺は行くよ」
今までにおわしていただけでしたが梅花凋落ってタイトルがもう十分ネタバレで台無し、と思いました。あと真選組の人たちの関係性とか性格はビスコさんに洗脳されてたそのまんま…。ごめんね! 9